人に恵まれた人
人に恵まれた人
というのは確かに存在する。
「この人は、周りの人に助けられてきたんだろうな」という印象の人はいないだろうか?
ひとりひとりの顔を思い返してみると、案外思い当たる人がいると思う。
例えば、すぐに誰かに頼って訊いてみることができる人。
例えば、感謝を素直に言える人。
周りの人を褒められて、自分のことのように喜ぶ人。
そんな人を見ると、ああ、この人は周りの人に助けられてきたんだな、と思う。
彼は、彼女は、その連鎖を繋げていく人だ。
連鎖が全てではない。
だけど、その傾向が強いのは確かだと思う。
あなたの周りはいい人が多いんだね、あなたを見てたらわかるよ、と人に言われた。
...そんなものかなあ?と思いながらも、確かに、と思う場面も度々ある。
誰にも、助けようと思ってもらえない人。
誰にも、相手にされない人。
信用をなくすのが一番怖いことだけれど、本当にそうなった時には、もう誰もそうなっていることを指摘してはくれない。
相手にされなくなったら終わりだよ。
小さい頃、繰り返しそう聞かされた。
半信半疑だったけれど、実際綺麗事でなく、そういった側面は本当にあるんだろうな。
最近、そんな風に思う。
ありがとうを伝える
「自分の長所が伝わる自己紹介」というお題で、「ありがとうを言える事」と書いた友人がいる。とても素敵な長所だ。
「ありがとう」が言える。
当たり前だし、当たり前であるべきだけど、私たちの「ありがとう」は普段、どれだけ生まれているだろう。
さらに言えば、生まれた「ありがとう」は、どれだけ相手に届いているだろう。
以前、職場の利用者アンケートに名指しでありがとうと書いて頂いたことがある。
研修期間中で、あれもこれも、失敗続き。覚える事もいっぱいで、なんだかなあと思っていたところでのお客さんからの、見える形での「ありがとう」。
嬉しかったなあ。
「ありがとう」と「ごめんなさい」。
一般論のようだけど、私は、この言葉を素直に言える人って素敵だと思うし、不器用でも、欠点があっても、そういう人の方がよっぽど好きだ。
先日、鍋を食べに行ったお店で、ラストオーダーとともに小さなアンケート用紙が渡された。
満足度、要望など、ありがちな設問が続く。
と、最後に。
「輝いていたスタッフがいたら教えてください」
正確な文言は忘れてしまったけれど、そのような設問が印象的だった。
感謝を伝える事。つい後回しにしてしまったり、欠点を注意することばかりに終始してない?
たった5文字でいいんだ。
私も、「ありがとう」が言える人でありたい。
後悔しない為の決断力
私はどちらかといえば、決断力が無いタイプの人間だ。でも最近、サキちゃんはすぐ決められるからいいよね、と言われる。
確かに、以前に比べたら、自分で決めきっている。
だけど、毎回考えて考え抜いて「自分にとっての正解」を出しているわけではない。最近やっと、コツをつかんだだけのこと。
後悔しない決断に必要なのは、検討し尽くす努力でも無いし、いわゆる勇気でも無い。
私は、"決断する"ことは、タイミングを捕まえることだと思う。
今だな、と思った瞬間に動いて、いちばんピンとくるものに決めてしまうこと。
決断して、あとで後悔する理由は、決断それ自体の問題だけではない。
色々な選択肢が転がっている、というのは迷う原因でもあるけれど、とってもとっても贅沢な環境。
私は昔のことは分からない。
だけど、現代って、今までにないほどの選択肢が用意された時代なんじゃないか。
あとになって、違う方を選んでいれば...と思うこともあるけれど、そこで悩むにはもったいない量の、次の選択肢が転がっている。
後から迷う要素を潰しておくこと。
例えば、「これは私が選んだ道」と根拠の無い自信を持って呟いてみる。そのうちに、本当にそう思うようになってくるから不思議。
例えば、その選択肢にして良かったことをノートに書き出しておく。迷ってノートを見返す頃にはきっと、良かったことがたくさんたまっていると思う。
もともと全てを選べるようにはできていない。だからこそ、「選ぶ」というのはとても楽しい。
選ぶ過程も大切だけれど、あとから後悔しないような考えを整えること。
だって、後から選び直せるようにもできていないし、大抵の場合、改善策は近くにある。
ーーそれなのに進まないって、もったいなくない?
後悔しないしくみを作っておく。
そうすれば、選んだ理由が何であろうと、後になって「自分で決めたから、これで良い」と言えるようになっているはず。
この話題に関しては、いずれまた詳しく書こうと思う。
「なりたい」と「やりたい」
あなたの将来の夢は何?何になりたいの?
大人はよく、そうたずねる。
「私は、◯◯になりたい。」
私はずっと、この答え方が苦手だった。
例えば、"教師"や"会社員"、"パン屋さん"なんていう「職業」があって、そこに当てはまる自分になる宣言を求められているように感じたから。
確かに、外側を規定するのは、輪郭が見えやすく、分かりやすい。
「私は、笑顔を作る仕事をしています。」
ではピンとこないけれど、
「私は、カフェを経営しています。」とか、
「私は、雑貨屋の店員をやってます。」
というと、具体的なイメージが湧いて、なんとなく納得する。
小・中学生の頃の昼休み、いつもみんなで絵を描いて遊んでいた。
どこから絵を描く?なんて話もした。
私は輪郭から。私は右のほうから。
描きながら考えていたあの頃は、様々な答えが出た。
当時のように、描くこと自体を楽しむだとか、目の前の形を再現することを目指していない場合はそれも1つの正解。
ただ、それはしっかりと目に見えるものを形にしていく方法としては心許ない。
方法論としての、形を再現するデッサンは、まず、全体の印象をとらえるところから始める。
大きな外側ではなく、内側の部分から描き始めたらどうなるか。
何か超人的な特殊スキルでも身につけていない限り、小さなズレが積み重なって、描こうとした物とはかけ離れた印象になってしまう。
「◯◯になりたいから△△をする。」
「 △△をしたいから、◯◯が合っていると思う。」
いつも、前者の考え方ばかりしていたけれど、長い目で見たときにまず大事なのは後者の考え方のように思う。
基準の在り処
私は人混みが嫌いだ。
なかでも特に、東京の美術館の人混みが。
一人ひとりが一斉に、同じ行動をしようとする。
展示を見るときの人混みは、とても疲れる。
先日、上野の国立博物館で開催中の運慶展に行ってきた。それでもピーク時よりは全然マシなんだろうけど、展示をしている平成館に入るまでは10分待ち。
風が冷たい秋の夜であるのにもかかわらず、平成館の入り口で、ざっと100人近い人々が4列になって開場を待っていた。
待つのは、別に苦ではない。ただ、あれだけの人が、同じものを見たいがためにお行儀良く並んで待っている、という状況に気味の悪さにも似た違和感を感じてしまう。
入場制限をクリアして、いざ展示を見る段になっても、展示室内は人で溢れかえっている。
解説を読むために緩やかな列ができる。
見たいものを見るためだけに、展示物ひとつひとつで並んで待つ。それを作品ごとに繰り返す。
並んで待っている人の列が壁を這うように続いて、他の作品を見づらくする。
都会の美術館の混雑は、一斉に、同じものを見ようとするから起きる。
それで、求めているものの良さを、どれだけ楽しめているだろう?
有名だから、話題になってるから、見に行ってみる。
皆が評価しているから良いーー。
評価の基準を外側に置くのは確かに楽かもしれない。だけれど、皆と同じものを、なんとなく追いかける必要なんてないと思う。
自分自身の基準で行動すれば解消されるだろう滞りは身近にたくさんあるし、良いものは、より良く楽しめると思う。
伝える言葉は連鎖していく
聞いたときにはそんなものかあ、と実感がなかったのに印象に残る言葉、
時が経って、不思議と自分の一部になっている言葉がある。
以前働いていた時に仕事を教えてくれた先輩が言っていた言葉が、私にとってのそんな言葉だ。
ーー俺は、仕事が出来ないのはやる側の問題じゃなくて、教える人の教え方が悪いと思ってる。
何かあったらフォローするから、良いと思うようにやってみろ。やってることは間違ってないから自信持て。
仕事を教えて出来ないのは、出来ない新人の責任じゃない、教える側の教え方が悪い。
今では、私もそう考えるようになった。
俺の伝え方が不十分だったな。
私が失敗しても、怒らずに気をつけるべき所を教えてくれたし、なにかを訊けば理解するまで確認してくれた。
私はいつも、周りの人に助けられてきたんだな、と当時のことを思い返す。
今、バイト先で、外国人留学生の子が働いている。仕事が忙しいのもあり、なかなか仕事を教える暇もなく、簡単な作業ばかりやってもらう状態になってしまっている。
隙をみて、やることを教えながら、思う。
私は、彼女がきちんと仕事をこなすことができるような教え方ができているだろうか。自分から見た景色だけで、彼女の仕事を判断してはいないだろうか。
新しい仕事を始める。
当然、初めのうちは大なり小なりミスが起きる。でも、よく観察してみると、基本ルールの伝え忘れや、こちらがフォローしきれなかった等、教える側の抜けが原因だったりする。
「新人だから仕方ない」
「新人がまたミス起こしたな」
そんな視点で見て、それで終わらせることもできる。
だけど、私はそれで終わらせるのは嫌だ。
初めから出来る人はいない。もしかしたら、何処かにいるのかもしれないが、私はまだ会ったことがない。
失敗しても受けとめてくれる人がいる場所で、自分で考えて動けること。
人を成長させるのは、付け焼き刃のノウハウではなくそのような環境で、それを作れるのは、一歩でも先に歩き始めた人なのだと思う。
私は誰かの作ってくれた環境で成長して、同時に誰かを導く要素のひとつとなる。
連鎖は続いていく。
自分が伝える、その一言によって。
「やる気」という魔物
最近、アルバイトが楽しい。
私は夏休み前から始めた某チェーン店で接客等のアルバイトをしている。
オープニングスタッフの高時給に惹かれて始め、秋になったら辞めるつもりだった。しかし、働くうちに気付けば最初の考えは何処かへ行った。
たまたま仕事内容が合っていたのもあるし、何より店長の人柄が決め手。
今では週3、4回、大学が終わるとバイトへ向かい、終電まで働くというスタイルだ。
そういえば先日、大学の講義でアルバイトの注意点などを扱ったことがあった。
バイトに明け暮れ、単位を落とすなど本末転倒な状態に陥る学生が中々減らない理由は、「ブラックバイト」と言われるような雇用側の問題だけでなく、学生側の問題でもあるのだという。
講義ではこう言っていた。
アルバイトに明け暮れる学生は結局のところ、楽しくてやっている。アルバイトは楽しくなるような要素がいくつもあるから、と。
仲間がいる連帯感、仕事をして褒められること、感謝されて仕事を任されること...。そのどれもが「やる気」ーー働く原動力に繋がる。
しかし、やがて使い切った労働力は必要とされなくなり、代わりの誰かへと入れ替わることになる。あなたが居ても居なくても、変わらず仕事は回っていく。
だから、「やる気」という魔物に身を任せてはいけない。ーーそのようにまとめて講義は終わった。
"やる気という魔物と戦う"。
その意見からみると、私は既に魔物に負けているのかもしれない。
ただ、繰り返しておくと、現在やっているアルバイトは楽しいだけでなく、学ぶ事がとても多い。魔物だからといって無条件に排除しようとするのではなく、うまく付き合っていく必要があるだろう。
アルバイトに限ったことでもなく、学生である今も、そしてこれからの人生でも、同じことなのだと思う。